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大津地方裁判所 昭和54年(ワ)268号 判決 1983年12月26日

原告

奥村秀樹

右訴訟代理人

植山昇

武川襄

篠田健一

被告

右代表者法務大臣

秦野章

右指定代理人

井筒宏成

外八名

被告

加藤実

被告

樫本龍喜

被告

渡邊秀男

主文

一  原告の請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一  当事者の求める裁判

一  請求の趣旨

被告らは原告に対し、連帯して金一億円およびこれに対する昭和五二年二月一六日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  請求の趣旨に対する答弁

主文と同じ。

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  原告の京都大学附属病院(以下京大病院という)への入院

原告は、昭和五〇年一一月ころ階段で転倒して右膝部を打撲し、右下肢に異常を感じたため、昭和五一年九月から一〇月にかけて山田外科病院および財団法人天理よろず相談所病院において右膝、脊椎等の検査を受けたが、さらに、検査および治療を受けるため、同年一〇月二六日被告国の経営する京大病院に入院し、ここにおいて、原告と被告国との間に同被告が原告の病状に対し善良な管理者の注意義務をもつて診療することを内容とする診療契約(以下本件診療契約という)が成立したところ、京大病院においては、整形外科で診療に従事していた被告加藤実(以下被告加藤という)、同樫本龍喜(以下被告樫本という)および同渡邊秀男(以下被告渡邊という)の各医師(以下被告加藤、同樫本および同渡邊を一括していう場合には被告医師らという)が共同して原告の診療を担当することになつた。

2  本件医療事故の発生

(一) 京大病院に入院時、原告は、主訴として「右下肢が時時震える。右下肢が左下肢より長く感じられる。右膝が滑らかに動かないように感じる。階段を下りる際、時時右足のスリッパが脱げる。入浴時右下肢に熱さが感じにくい時がある。自転車に上手に乗れなくなつた」などの症状を訴え、原告の第五胸髄節から第八胸髄節間部には知覚障害が存したところ、被告医師らは、原告の右症状や知覚障害を脊髄障害に起因するものと診断し、昭和五二年二月一五日午前一〇時二〇分から原告に対し癒着部脊髄膜剥離手術(以下本件手術という)を施し、午後四時二〇分これを終了した。

(二) 原告は、本件手術前、時時右足を引きずるだけで日常生活には全く支障がない状態であつたが、本件手術の直後から下半身が麻痺し現在、下半身麻痺は症状として固定し改善の見込みがないものと診断され、しかも、排尿障害により常におしめをしていなければならないうえ、下肢の痙攣が頻繁に発生する状態にあつて、身体障害者一級に認定されている。

3  被告国の債務不履行責任

本件医療事故は、次に述べるように、被告国の履行補助者である被告医師らが本件診療契約上の注意義務を怠つたために発生したものであるから、被告国は、債務不履行に基づき、原告に対し後記5の損害を賠償する義務がある。

(一) 一般に、医師は、患者の身体状況の正確な把握のうえに立つた患者側の要求度、手術の効果およびその危険性等諸般の事情を慎重に検討して、患者の治療にとつて真に必要がある場合にのみ手術を施行すべきである。ところが、原告の病状の進行は緩慢であつて本件手術を直ちに施行しなければ原告の生命、身体に対して悪影響を及ぼす緊急性はほとんどなく、本件手術の効果にも疑問があり、一方で、本件手術は脊髄周辺部を施術するものであつて原告の生命、身体にとつて極めて危険性が大きいのであるから、これらの事情を慎重に検討すれば原告に対する本件手術の必要性は否定されることになるのに、被告医師らは、右判断を誤り、原告の脊髄障害が癒着性脊髄膜炎か脊髄腫瘍かのいずれによるものであるかということを確定することに目を奪われて、本件手術を必要であると判断し、これを施行した。

(二) 本件手術は極めて危険性が大きく、しかも、本件手術を直ちに施行しなければならない緊急の事情もなかつたのであるから、被告医師らは、本件手術を施行する前に、原告が危険を伴つてもあえて本件手術を受けるか否かを自由かつ真摯に選択できるように、原告およびその家族に対し、原告の病状、本件手術の内容、本件手術による症状改善の程度、本件手術をしない場合の症状の進行程度、本件手術における生命、身体の危険性について説明する義務があるのに、これを怠り、右の諸事項について説明を尽さなかつた。その結果、原告は本件手術を単に検査の延長にすぎないと考えて安易に承諾したものであるから、右承諾は無効であり、本件手術は違法である。

(三) 本件手術は脊髄周辺部を施術するもので極めて危険性が大きいのであるから、被告医師らは、本件手術を施行するにあたつて脊髄等を損傷しないように細心の注意をもつて施術する義務があるのに、これを怠り、本件手術の際、原告の脊髄周辺の神経を傷つけ、あるいは、切断した。

4  被告医師らの不法行為責任

本件医療事故は、被告医師らが共同して原告を診療するに際し前記3の(一)ないし(三)の注意義務を怠つた過失により発生したものであるから、被告医師らは共同の不法行為に基づき、原告に対し後記5の損害を連帯して賠償する義務がある。

5  損害

(一) 慰謝料 一五〇〇万円

(二) 逸失利益 五五四六万三〇六五円

(三) 看護料 四六六六万六七一〇円

(四) 雑費 五四四万四四四九円

(五) 弁護士費用 七〇〇万円

6  よつて、原告は、被告国に対し債務不履行責任に基づき、被告医師らに対し不法行為責任に基づき、被告らが連帯して右損害の合計額一億二九五七万四二二四円のうち一億円およびこれに対する本件医療事故発生の日の翌日である昭和五二年二月一六日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金を支払うことを求める。

二  請求原因に対する認否および反論

1  請求原因1の事実は認める。

2  同2の(一)の事実は認める。同(二)のうち、本件手術後原告の下半身が麻痺したこと、下半身麻痺が症状として固定し改善の見込みがないと診断されたこと(但し、その時期は昭和五三年二月ころである)、原告に排尿障害があること、原告の下肢に痙攣が発生することは、いずれも認めるが、原告が常におしめをしていること、痙攣の発生が頻繁であることは、いずれも否認する。

なお、昭和五三年五月三〇日原告は膀胱障害の治療と下肢の機能訓練の目的で星ヶ岡厚生年金病院へ転院したが、当時の原告の状態は次のとおりであつた。

(1) 知覚は、①痛覚については、右第四胸髄節から第八胸髄節間部で高度の鈍麻が認められるが、本件手術前の脱出の状態よりはむしろ改善されている。その他の第四胸髄節以下には鈍麻がみられる。②触覚については、第四胸髄節から第八胸髄節間部と左第一腰髄節以下では鈍麻がみられるが、他の部では本件手術前よりむしろ改善されている。

(2) 下肢運動は痙性のため自動的にはスムースに行い得ないが、筋力としては、股関節の屈曲は下肢の重量に抗して可能であり、伸展は重力を排すれば可能である。膝関節では、屈曲は下腿の重力を排すれば左は可能であり、右も左より落ちるがほぼ可能である。足関節の背屈は、足部の重力を排して左は十分に可能であり、右もほぼ可能である。底屈は重力を排して左右とも可能である。

(3) 起立は不能であるが、長下肢装具を使用すれば三〇分間以上可能である。長坐位は背もたれなしで一時間以上可能である。その他動作的にはベッドから車椅子への乗降は自力で可能であり、運転も何ら支障なく可能である。

(4) 排尿はユニボンの装着のもとに用手圧迫によつており、残尿率は三〇ないし四〇パーセントをみている。

3  同3、4の各事実は、いずれも否認する。

なお、原告主張事実に対する反論は次のとおりである。

(一) 本件手術の必要性の判断について

被告医師らは、原告の臨床症状とその経過、臨床所見および検査所見を種種検討の結果、原告の症例は癒着性脊髄膜炎(これは、髄膜の化膿性、結核性等の細菌性によるもの、寄生虫による炎症によるもの、脊髄腔造影剤や腰椎麻酔剤等の薬物による化学的刺激によるもの、手術や外傷による脊髄腔内への出血等に続発したもの、あるいは何ら一次的原因が推定され得ないものを含めて、脊髄膜が脊髄あるいは神経根と癒着した結果、臨床的に脊髄症状あるいは神経根症状が出現したものを一括した一種の症候学的診断名である)による脊髄障害によるものと診断し、これを何ら治療することなく放置した場合には症状は徐徐に増悪し将来的には完全麻痺へ移行するであろうと判断した。そして、治療法については、原告の症例に対しての保存的治療の効果は全く期待できず、何らかの症状の改善が期待し得る治療法としては手術療法のみが挙げられると結論し、本件手術を施行したものである。

(二) 本件手術の説明について

被告医師らは、原告が昭和五一年一〇月一八日京大病院整形外科外来を受診してから本件手術を受けるまでの期間に、原告に施行した種種の検査の結果、これらの総合的な検討によつて得られた原告の病状に対する診断および放置された場合に予測される予後、さらに、その治療法としての本件手術の内容、その結果として期待される病状の改善の可能性および懸念される危険性等について、逐次、原告あるいはその家族に対し十分に説明を行つた。

(三) 本件医療事故の原因について

脊髄そのものに何ら接触することなく、それに隣接する椎弓を外科的に切除したり、あるいは、さらに脊髄腫瘍の摘出等の脊髄硬膜内での手術的操作がなされると、展開された部分を中心とした脊髄の神経組織に一過性に水分量が増加し、それが腫れた状態すなわち浮腫が発生する。浮腫が生ずると、組織内の細胞間隙は狭小化し、そのため局所の循環も障害されて乏血やうつ血状態となり、これらがまた一方では浮腫の増強因子としても作用することになるが、この状態は、通常術後三日から五日間でほぼ最高に達し、その後は徐徐に軽減して三週ころにはほぼ完全に消退する。そして、多くの症例では、手術によつて得られた圧迫からの解放とそれに基づく局所の循環状態の改善の程度のほうが浮腫による局所の循環障害の程度を上回り、手術の対象となつた疾患に何ら悪影響を及ぼさず、あるいは、あつてもそれは術後の一時的な症状の増悪にとどまり、浮腫の軽減消退とともに結果として症状も改善されるという経過をたどる。ところが、時として一部の症例においては、手術によつて得られた新しい循環系が確立されるまでの極めて限られた時間内に神経組織の変性が進み、そのため術後神経症状が増悪するという事態に移行することがあり、本件医療事故もこのような経過によつて発生したものと推測される。

4  同5の事実は否認する。

第三  証拠関係<省略>

理由

一請求原因1および2の(一)の各事実、ならびに同(二)のうち、本件手術後原告の下半身が麻痺したこと、下半身麻痺が症状として固定し改善の見込みがないと診断されたこと、原告に排尿障害があること、原告の下肢に痙攣が発生することは、いずれも当事者間に争いがない。

二そこで、まず、被告医師らの診療行為につき請求原因3の(一)ないし(三)記載の注意義務違反があつたか否かについて検討する。

1  請求原因3の(一)の主張について

(一)  <証拠>を総合すると、以下の各事実が認められる。

(1) 原告は、昭和五一年一〇月一八日京大病院整形外科外来において被告加藤の問診と同渡邊の診察を受け、脊髄障害に起因する下肢の痙性麻痺があるとの診断により入院を勧められ、同月二六日京大病院整形外科に入院した。その際、指導医を渡邊とし、主治医を同加藤、同樫本とする医師団が結成され、被告医師らが協議、協働して原告の検査、治療にあたることになつた。当初、原告の脊髄障害の病因として、脊髄空洞症、脊髄腫瘍、脊髄血管奇形、癒着性脊髄膜炎(これは、脊髄障害の病因がクモ膜と軟膜との癒着にあることは発見したが、その一次的疾患、すなわち脊髄空洞症、脊髄腫瘍、脊髄血管奇形等の疾患が全く発見できない場合の診断名である)のいずれかが考えられたが、被告医師らは、病因確定のため、協議、検討を重ねながら、同年一一月五日に脳脊髄液検査を、同月一二日に、造影剤(マイオジール)による脊髄腔造影検査を、同月二九日に椎骨動脈撮影検査を、同年一二月六日に肋間動脈撮影検査を、同月二三日に脊髄腔空気造影検査を、昭和五二年一月二〇日に脊髄腔空気造影検査をそれぞれ原告に対して行つたところ、脊髄空洞症、脊髄腫瘍、脊髄血管奇形の可能性はかなりの程度否定されるに至り、同年一月下旬ころ、原告の脊髄障害は第二胸椎から第四胸椎間、あるいは第五胸椎間の癒着性脊髄膜炎に起因するものであるとはほぼ断定した。さらに、被告医師らは、右の一次的疾患の可能性がわずかとはいえ残つていたので、これを検索するため、同年二月二日に脊椎CT検査を、同月一〇日にミエロシンチグラフィー検査(アイソトープによる脊髄腔造影検査)をそれぞれ原告に対して試みたが、いずれも明確な検査結果は得られなかつた。

(2) 癒着性脊髄膜炎の病理は、クモ膜と軟膜との癒着により脊髄が紋扼あるいは圧迫されるため脊髄内の血液の流れが妨げられ、神経細胞が萎縮して神経症状が引き起こされ、さらには神経細胞が回復不能の壊死の状態に至るというように、徐々に増悪の経過をたどるとされている。原告の神経症状は、マイオジールによる脊髄腔造影検査後その副作用により一時的に増悪したり、脊髄腔空気造影検査後その治療的効果により一時的に安定あるいは良好の状態になつたりしたものの、右各検査の影響を脱した時期と考えられる昭和五二年二月初めころには、外来初診時にあつたバビンスキー反射やクローヌス反射等の病的反射および知覚障害にはほとんど変化なく、むしろ、麻痺症状については、右下肢の脱力を訴えて歩行機を使用したり、左下肢の弱さや左足首をうまく動かせないと訴えたりする日があるなど増悪の傾向を示していた。そこで、被告医師らは、右のような癒着性脊髄膜炎の病理および原告の神経症状を検討し、さらに、原告の病変部は第四胸椎の高さにあつて、ここは脊髄の血行が最も少ない部分であるから、ほかの部分に病変がある場合と比較すると神経症状の増悪の傾向が大きいことをも考慮して、原告から癒着性脊髄膜炎という状態を取り除かない限り、麻痺症状が進行して五ないし一〇年のうちに歩行不能の状態になる危険性があり、しかも、この処置は神経細胞が回復可能な状態にあるうちに早期に施す必要があるものと判断した。

(3) 癒着性脊髄膜炎に対する治療法のうち、癒着部を剥離する方法としては、空気注入療法(脊髄腔内に空気を注入してその空気圧により癒着部を機械的に剥離する方法)と手術療法があるとされているが、空気注入療法については昭和三七年発行の精神神経学雑誌六四巻岡山大学医学部陣内外科教室西本詮著「脳および脊髄蜘網膜炎の診断と治療」に手術療法よりもすぐれている旨の報告があるにとどまり、同年発行の雑誌Brit. J. Radiol三五巻四一三号医学博士G・ロンバルデイ外二名著「脊髄クモ膜炎」では、空気注入療法の紹介はなく、「手術療法によつて目立つて良い結果を得ることができなかつたので、手術適応を大きく狭めて、脊髄障害が発症してからの期間が短く、限局性のクモ膜炎のものに限定している」旨が報告され、さらに、昭和五一、二年発行の文献(医学博士B・S・エプスタイン著「脊髄」、神中正一著九州大学名誉教授天児民和改訂「神中整形外科学」)でも、空気注入療法の紹介はなく、かえつて「限局性の癒着性脊髄膜炎に対しては手術療法が有効である」旨が述べられている。そして、手術療法による場合、脊髄周辺部に対する侵襲を原因として脊髄には必ず浮腫(これは、一般的にみる腫れの現象であつて、外傷により細胞の膜が壊されて細胞内に水分が入り込み、細胞が水ぶくれの状態になることをいい、その程度は、個人の体質によつて左右される)が生じ、時には、これが萎縮の程度が大きく、したがつてはなはだしく易損性にあつた神経細胞を非可逆的な方向で悪化させ、そのため神経症状が増悪することがあるとされている(後記3のとおり、本件医療事故もこのような経過によつて発生したことが推認される)が、昭和三〇年代の終わりころから昭和四〇年代の初めころにかけて脊髄浮腫への対策が研究され、その成果(リンデロン((副腎皮質ホルモン剤))やベノスタジン((消炎剤))の投与等)により昭和四六年以降においては脊髄浮腫による神経症状の増悪はほとんどみられなくなつており、現に、京大病院においては、昭和四六年以降の脊髄浮腫による増悪例は二例にとどまり、うち一例は再び軽快し、他の一例は経過不明であるが、臨床症状が極端に悪い症例であつた。また、被告渡邊は六例の癒着性脊髄膜炎の患者について執刀した経験を有しているが、いずれも手術後神経症状が増悪した例はなかつた。そこで、被告医師らは、脊髄腔空気造影検査によつて空気注入療法の治療的効果を期待したが、著明かつ継続的な効果が得られず、一方、原告の病変部はある程度限局しているうえ、その神経症状も臨床所見をみる限り神経細胞の機能の回復が望めないほど増悪してはいないと認められたことから、脊髄浮腫による危険性を考慮しても、なお、原告の症例に対しては本件手術の適応があると判断し、執刀医を被告渡邊とし、介助医を被告加藤、同樫本として本件手術を施行することを決定した。

(二)  そこで、右認定事実と前記当事者間に争いがない事実とをさらに総合して考えるに、被告医師らは、原告の神経症状や各種検査の所見から原告の脊髄障害が限局性の癒着性脊髄膜炎に起因するものと診断し、脊髄膜の癒着部を剥離せずこのまま放置すると原告の神経症状は増悪して歩行不能となるおそれがあり、しかも、癒着部の剥離を早期に行わないと神経細胞の萎縮が進行してその治療効果が危ぶまれる事態に至る可能性があつたことから、原告の症例に対しては本件手術の必要性があると判断したところ、昭和五一、二年当時、原告の症例のように限局性の癒着性脊髄膜炎に対しては手術による癒着部の剥離が治療法として一般に行われ、これが有効とされていたうえ、原告の神経症状から推測される神経細胞の萎縮の程度にあつては脊髄浮腫による神経症状の増悪の危険性は少なかつたのであるから、被告医師らが原告の症例に対して本件手術の適応があると判断し、これを施行したことは、医師として通常の措置であるということができ、右判断に誤りがあつたとする原告の主張は採用することができない。

2  同(二)の主張について

(一)  <証拠>を総合すると、以下の各事実が認められ<る。>

(1) 被告医師らは、本件手術の施行を決定した後、京大病院の慣例に従い、主治医である被告樫本が原告の承諾を得るため原告に対し本件手術の説明を行うこととし、同被告は、昭和五二年一月末ころと同年二月上旬ころの二回にわたつて原告(当時二八歳)およびその両親を別室に招致し、合計四〇分間前後、脊髄腔造影のレントゲン写真を示したり黒板に絵を書いたりしながら、概ね、「病変の原因は胸髄の二番から四番、あるいは五番の陰影欠損部分にあつて、これは原告の身体検査の所見や神経麻痺の症状とも一致している」「入院前年の一二月に転倒してから症状は次第に増悪してきており、原告の身体検査の特徴的な所見や脊髄腔造影検査からすると、波はあるだろうが、これからも次第に増悪して行くという予測を持つている」「これを治療するなら手術しかなく、その時期は二月半ばを目処に考えている」「手術は、背中の側から正中線で病変部に皮切を行い、脊柱の両脇の筋肉を左右に分けて脊椎を露出し、病変部の椎弓の骨を除去してその下にある脊髄膜を露出したうえで癒着があるかどうかを検索して行くという方法で行い、手術の範囲は多少拡大することもあり得る」「癒着があつて、それが手技によつて簡単に剥離することができるような場合には手術を進行するが、剥離することが非常に難しい場合には手術をやめて退却する。そして、もしも、脊髄にたちの良い鳥が止まつているという状況であれば結果は良かろうし、もしも、たちの悪い鳥が止まつているという状況であれば結果は悪かろうが、いずれにしても、この時点では、結果について、良くなるか、そのままであるか、悪くなるかは、はつきりしたことは言えない」と説明し、最後に、「家族や親類ともよく相談して本件手術を受けるかどうか返答してもらいたい」旨を述べて、本件手術に対する原告の諾否を求めた。

(2) 被告樫本は右の説明結果を執刀医である被告渡邊に報告し、二回目の説明日の翌日、被告渡邊が原告のいるところでその母親に対し、「病状についてはよくわかつたか。手術の必要性あるいは危険性についてはよく理解できたか。何かわからないことがあつたら質問してくれ」とさらに確認したところ、母親は「説明はよくわかつた」と答え、原告からも母親からも何ら質問がなかつた。その三、四日後、原告は本件手術を受けることを承諾した。

(二)  そこで、右認定事実と、前記1の(一)の認定事実および前記当事者間に争いがない事実とをさらに総合して考えるに、被告樫本は、本件手術について原告の承諾を取り付けるため、原告に対し、①原告の病状、②本件手術の内容、③本件手術による症状改善の程度、④本件手術をしない場合の症状の進行程度、⑤本件手術における生命、身体の危険性について、右記(一)の(1)のとおり説明を行つたところ、①、②、④の各事項については、被告医師らが原告の臨床症状や各種検査から把握した限りの事実および手術の方法、範囲を有りのままに詳しく説明しているのであるから、説明を尽していないとの非難は当を失しておりまた、③、⑤の各事項については、被告樫本は、比喩を用いて抽象的に「もしも、脊髄にたちの良い鳥が止まつている状況であれば結果は良かろうし、もしも、たちの悪い鳥が止まつているという状況であれば結果は悪かろうが、いずれにしても、この時点では、結果について、良くなるか、そのままであるか、悪くなるか、はつきりしたことは言えない」旨を説明しているにすぎないけれども、当時、原告の神経症状から推測される神経細胞の萎縮の程度にあつては脊髄浮腫による神経症状の増悪の危険性は極めて少なかつたことが推認され、ただ、原告の体質による浮腫の程度や実際の神経細胞の萎縮の程度によつては増悪の危険性が全くないとはいえなかつたにとどまるのであり、しかも、被告樫本は、本件手術の有効性のみを強調して原告の承諾を求めたのではなく、有効、無効、悪化の可能性を並列して説明を行い、その選択を原告に任せたうえ、原告に対して十分に考慮の期間を与え、被告渡邊においても原告とその母親に対して質問の機会を与えているのであるから、これらの事情を勘案すると、被告樫本の右程度の説明があれば被告医師らに課された説明義務は尽されているものといわざるを得ない。してみると、被告医師らが説明義務を怠つたとする原告の主張は採用することができない。

3  同(三)の主張について

<証拠>を総合すると、本件手術後原告の下半身は麻痺したものの、その神経症状は、反射、知覚、運動が全く消失しているわけではなく、本件手術前の神経症状の増悪とみられること、脊髄が完全に切断された場合、その直後に反射は全く消失して筋肉も緊張のない状態(弛緩性麻痺)となり、これらの神経症状は全く回復することがないこと、脊髄にはその全体に触覚、痛覚、運動、平衡感覚等の種種の機能がばらまかれているので、その一部の機能をつかさどる部分だけを不完全に切断することは不可能に近く、また、切断部分については完全に切断された場合と同様の神経症状が生じること、本件手術は第二胸椎から第五胸椎間に対して施行されたが、その部分の神経根は下肢に対する機能をつかさどつていないから、これを損傷したとしても下半身麻痺は生じないことが認められ、右認定事実と前記1の(一)の(3)の認定事実とを総合すると、本件医療事故は脊髄等の損傷によるものではなく、むしろ、脊髄周辺部の侵襲によつて生じた脊髄浮腫が原告の神経症状を非可逆的に増悪させたことによるものと推認するのが相当である。してみると、被告医師らに本件手術中手技の誤りがあつたとする原告の主張は採用することができない。

三以上によると、原告の被告らに対する本訴請求はいずれも理由がないので、これを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条を適用して主文のとおり判決する。

(小北陽三 森弘 川久保政徳)

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